島津斉彬は、薩摩藩の第11代藩主です。幕末のドラマや物語にもよく登場する人物で、名君として知られています。2018年のNHK大河ドラマ『西郷どん』にも登場し、若き西郷隆盛の才能をいち早く見抜き、出世への道を開いた藩主と言われています。
生まれながらにして、藩の跡継ぎとして育てられた島津斉彬とは、一体どんな人物だったのでしょうか?西郷隆盛との信頼関係とは?ここでは、幕末の名君・島津斉彬の生涯と、西郷隆盛の関係について、迫ってみたいと思います。
島津斉彬は英才教育を受けていた?
島津斉彬は、第10代薩摩藩主・島津斉興の長男として、1809年に誕生しました。母親は、鳥取藩主・池田治道の娘・弥姫(いよひめ)という人物です。島津家に嫁いでからは、周子(かねこ)と改名します。
弥姫は、薩摩藩へ輿入れする際、花嫁道具として「四書五経」、「左伝」、「史記」、「漢箱」などを大量に持ち込んだ才女で、薩摩藩の家臣や女中を驚かせたという記述が残っています。
島津斉彬が誕生すると、周子は当時一般的だった乳母による子育てに頼らず、自ら母乳を与えて育てたと伝えられてます。
また周子は和歌や漢詩の作品も多く残しており、子どもたちにも「四書五経」、「左伝」、「史記」などを自ら説いて聞かせていたといいます。ここに、斉彬が名君として育つ基礎があったのかもしれません。
島津斉彬がなかなか藩主になれなかった訳
父親の島津斉興が藩主となってからも、実際に政治の実権を握っていたのは曽祖父である第8代藩主・島津重豪でした。島津重豪は、洋学を重要視し、財政を圧迫するほど藩のお金をつぎ込んでいたことから「蘭癖大名」と呼ばれていたそうです。
その重豪から溺愛されて育った斉彬が藩主になれば、また財政を苦しくさせるのではないかとの懸念を抱く家臣たちがいて、父の斉興はなかなか藩主の座を譲らなかったと言われています。斉彬は40歳を過ぎても、家督を継ぐことができませんでした。
さらに、藩内では側室のお由羅の方の子である島津久光を次期藩主に、という声が囁かれ始めます。斉彬派と久光派の対立は激しくなり、あるとき、斉彬派の家臣たちが、久光とお由羅の方の暗殺を企てていると嫌疑をかけられます。
首謀者とされる人物など十数人が、切腹の処罰を受け、連座した50名近くの家臣たちも謹慎などの処分を受けたとされています。この時、西郷隆盛(吉之助)の父は、切腹した赤山靭負の家来でした。世にいう「お由羅騒動」です。
島津斉彬も一旦鹿児島から逃げて福岡藩主の庇護を受けていましたが、幕府からその洋学知識を必要とされ、やっと薩摩藩主となります。
藩主になった後は富国強兵に務め、薩摩藩の政治に関する意見書を広く募集しました。その頃、下っ端役人だった西郷隆盛(吉之助)も多数の意見書を送り、それが島津斉彬の目に留まって側で仕えるようになったと言われています。
西郷隆盛が島津斉彬に寄せた信頼
島津斉彬は、藩主になると西洋の技術を積極的に取り入れるようになります。反射炉や溶鉱炉の建設、ガラスやガス灯の製造など、当時の日本では最先端の産業を興しました。それらは集成館事業と呼ばれています。
また、島津斉彬は幕政にも積極的に参加していましたが、井伊直弼が大老に就任すると、徳川家のお家騒動に巻き込まれ、負けてしまいます。
さらに井伊直弼が進める安政の大獄に抗議するため、藩兵5000を率いて上洛の準備を進めていた途中で、島津斉彬は発病し、急死してしまいます。死因はコレラという説がありますが、島津久光派による毒殺という説もあるようです。
西郷隆盛は、自分を取り立ててくれ、指針でもあった島津斉彬の死を悼み、殉死しようとしますが、僧・月照に説得され、亡き主君の意志を継ぐ決意をするのです。
下っ端の役人から、幕政に関わる地位にまで自分を取り立ててくれた、島津斉彬が跡に残した轍を、西郷隆盛は生きていく道と定めたのかもしれませんね。
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