1877年、西郷隆盛を中心に集結した元士族たちと、新生明治政府との間に戦いが起こりました。西南戦争です。西郷隆盛とともに、明治維新の功労者として「維新の三傑」のひとりと謳われた親友の大久保利通は、明治政府の内務卿として西郷隆盛と戦うことになります。
同じ薩摩藩士であり幼馴染同士であった西郷隆盛と大久保利通が、なぜ敵対することになったのでしょう?さまざまな歴史的背景を、ここで少しずつひも解いてみたいと思います。
西南戦争をひきおこした原因 1 士族たちの不満
時代が江戸から明治へ移り、世の中も劇的に変化していくことになります。かつて武士階級にあり、明治維新に積極的に貢献した人々は、士族という身分で暮らしていました。
当時、明治政府から、国家予算の約4割に当たる給料が、人口わずか5%の士族の為に支払われていましたが、すぐに財政困難に陥ります。その状況を打開するために、政府は大幅な給料削減を行います。士族は経済的困窮を強いられることになり、少しずつ不満が蓄積されていきました。
また、江戸時代に苗字を有する権利と、武具を持つことができる帯刀権など、武士に許されていた権利がありましたが、明治になり誰でも苗字が名乗れるようになり、徴兵制により誰でも軍人になることができるようになるなど、士族としての特権を奪われる事態が続きます。
経済的にも困窮し、武士の出身としてのプライドも潰され、精神的にも傷つけられた士族が、明治政府に対して反感を持つようになったとしても無理はありません。
西南戦争をひきおこした原因 2 明治政府のあり方
西郷隆盛は、そんな士族たちの声を聴き、明治政府に働きかけますが、大久保利通と「征韓論」で衝突します。西郷は鎖国していた朝鮮に対して、武力でもって開国を促すよう主張しますが、大久保は時期尚早として国内の経済成長こそ重要とし、西郷の考えを否定します。
結果、明治天皇から朝鮮出兵は中止と決定され、西郷隆盛は「明治6年の政変」に敗れて失脚してしまいます。西郷はその後鹿児島に戻り、「私学校」を創設し、藩士の教育に勤めます。
西郷隆盛を慕って鹿児島へやってくる士族は後を絶たず、熱烈な西郷支持者の他に、明治政府に不満を持つ士族も多く集まり始めます。こうした流れを、明治政府は次第に脅威に感じ始めます。すでに各地で政府に対する反乱が起こっていたからです。
西郷隆盛の元、士族たちが集まり軍事力を蓄えていくことに、政府は危機感を覚え、鹿児島の軍需工場から秘密裏に武器弾薬を運び出して、大阪へ移そうとしました。それを目撃した私学校の士族たちは激高し、逆に政府側の弾薬庫を襲撃し始めます。
さらに、西郷隆盛らの反乱を恐れた政府が、西郷を暗殺しようとしていることが発覚します。士族たちの政府に対する信頼はもはや完全になくなり、熊本城や大分などから反乱が起こり、西南戦争が勃発しました。
士族による薩軍は政府軍に追われ、田原坂で激戦となります。この田原坂で、政府側がからくも勝利を収めてからのち、薩軍はどんどん兵力が少なくなっていきます。
最後には、薩軍は70,000もの政府軍に包囲されて、西郷隆盛は城山で自刃し、西南戦争は終結することになるのです。
この西南戦争の終結により、士族の反乱も終息していきます。そんな中、ほとんど農民で構成されていた政府軍が勝利したことで、士族も農民も変わらぬ強さで軍事に関わることができると認識され、徴兵制が急速に進められていったそうです。
西南戦争後、大久保利通は西郷隆盛を支持していた元士族に暗殺されてしまいます。日本という国が一歩進化するための布石とはいえ、多大な犠牲をはらった西南戦争の爪痕は、あまりにも大きなものでした。
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