動乱の幕末から明治にかけて活躍した人物の中でも、「西郷隆盛」と言えば知らない人はいないのではないでしょうか。
一体なぜ現代になっても、それほどまでに語り継がれているのでしょう。西郷隆盛が発した言葉には、どれほどの影響力があるのでしょうか?
ここでは、いまもTVドラマなどで注目される近代の偉人・西郷隆盛の言葉・名言について迫ってみたいと思います。
当時の教えは漢詩から学んでいた
江戸時代、諸藩には学問所が設けられていました。藩主は藩を統治するために学問を学び、教養をつむべきとされ、儒学者や兵学者を招いて講義を行い、重臣たちにも聴講させていたそうです。
それを一般の藩士にも奨励し、武芸とともに学問を教養として積むことを薦めていました。当時、幕府が方針としていたのは儒学であり、なかでも朱子学が正統として尊ばれたそうです。
城下で、儒学者から学問を学ぶ学問所を「藩校」と呼んでいました。有名なところでは、江戸に設けていた「昌平坂学問所」などがあります。
西郷隆盛の郷土・薩摩藩にも、江戸時代後期に「造士館」という藩校が設立されました。また、藩校の他に薩摩藩独自の「郷中」と呼ばれる青少年教育が地区ごとにあり、西郷隆盛もここで儒学を学び、武士としての志のあり方や、リーダーシップなどを育んでいったと言われています。
日本の西南端として西洋列強からの外圧にさらされていた薩摩藩は、他藩より先駆けて近代化にとりくんでいたこともあり、学問に対しても理想が高く、レベルも大変高かったそうです。
明治政府発足後においても、薩摩藩出身の多くの人物が、国家の重要な役割を担っていたことに裏付けされていますね。
西郷隆盛の名言は、時代を超える
儒学を学んだ西郷隆盛が書いた手紙や漢詩が何作も残っています。そのなかで、現在もいろいろな人々の心の拠り所とされている一節があります。それが「耐雪梅花麗(ゆきにたえてばいかうるわし)」です。
冬の厳しい寒さに耐えしのぶからこそ、梅の花は春になって一層美しく咲き、かぐわしい香りを発する、という様子を表しています。人もさまざまな経験や試練を積み重ね、乗り超えることで大きく成長を遂げる、という意味が込められているのです。
これは1872年(明治5年)に、西郷隆盛が甥の市来政直に詠んで送った漢詩の一部です。現在でも、信州大学教育学部付属松本中学校では、教育方針として掲げられています。
西郷隆盛の名言は国境をも超える
また、広島カープや大リーグでも活躍した黒田博樹投手は、高校時代にこの一節を知って感銘を受け、以来“座右の銘”としているそうです。
大リーグ・ヤンキース時代の2012年、スプリング・キャンプのミーティングの席にて各選手が日替わりで「好きな言葉」を披露する際、この一節を披露したそうです。同席したチームメイトや監督もこの言葉に共鳴し、チームに大きな影響を与えたとされています。
黒田博樹投手は、2014年、大リーグからの高額オファーを断って、古巣の広島カープに復帰します。2016年に広島カープは、25年ぶり7度目のリーグ優勝を飾り、黒田博樹投手は監督らと共に胴上げされました。
さらに同年の10月1日、ヤクルト戦での勝利で、黒田博樹投手は2010年から続けて7年連続して2ケタ勝利を達成します。2リーグ制以降、右腕投手としては初の快挙を成し遂げました。このシーズンを最後に、黒田博樹投手は現役を引退しました。
1996年に、ドラフト逆指名2位で広島カープに入団し、1997年に2軍の中継ぎから始まった黒田博樹投手の野球人生ですが、2016年の引退後、「背番号15」は広島球団3人目の永久欠番となりました。
「耐雪梅花麗」を座右の銘に掲げ、投手として一時代を駆け抜けた黒田博樹投手は、西郷隆盛自身が何度も困難にあい、都度立ち上がって信念を貫きとおした背景を、まさに物語っているようですね。
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