西郷隆盛の力量を見出した薩摩藩の名君・島津斉彬はどんな人物だったのでしょうか?
養女として徳川家に嫁いだ篤姫との関係は?また、島津家の子孫はどうなったのでしょうか。
ここでは、幕末の名君・島津斉彬と子孫について、少しご紹介したいと思います。
薩摩藩のはじまり
薩摩藩のはじまりは戦国時代までさかのぼることができます。1600年、徳川家康から認められて、島津家久が薩摩藩の初代藩主となります。
薩摩藩は、現在の鹿児島県と宮崎県の南西の一部を治めていました。「外様大名」でありながら、加賀百万石に次ぐ石高を持つ大きな藩とされていました。
江戸初期は琉球王国も加わっていたため70万石を越す石高だったとされています。しかし、薩摩藩の広くは火山灰が降り積もるシラス台地だったために、実際には作物が育ちにくく、大変だったようです。
名君と讃えられた島津斉彬
島津斉彬は、薩摩藩第11代藩主にあたります。他藩と比べて、近代化を進めた人物でもありました。
蘭学への関心も高かった第8代藩主・島津重豪のお気に入りだった島津斉彬は、若い頃から西洋の技術に興味を持ち、反射炉や溶鉱炉など、工業に力を入れました。
また、当時最新の「蒸気機関」の国内製作を模索し、初の国産の蒸気船まで造船しています。その名声は徳川幕府内でも強い影響力を持っていました。
通常、「外様大名」は国政に意見することは許されていませんでしたが、島津斉彬は堂々と内政に介入していきます。将軍後継者問題については、時の大老・井伊直弼と対立するほどの力を得ていました。
島津斉彬と篤姫の関係とは?
島津斉彬は、徳川幕府第14代将軍に一橋慶喜を据える画策を立てていました。そこで、父・斉興の弟で今和泉島津家の当主だった島津忠剛の長女である篤姫を養女とし、第13代将軍・徳川家定の御台所として嫁がせます。
しかし篤姫を使った内部工作は上手くいかず、井伊直弼が主導した「安政の大獄」によって、島津斉彬は隠居に追い込まれます。
島津斉彬は軍隊を率いて、江戸へ進軍しようとしますが、その矢先に志半ばで急死してしまいます。その後の藩の実権は、弟の島津久光が握ることとなりました。
島津斉彬の急逝には、父の島津斉興や、久光の母・お由羅の方側の人間による毒殺ではないかという見方もあるようです。
同じ年に徳川家定もこの世を去りました。篤姫は出家し、天璋院と名乗ることになります。薩摩藩へ戻る話も持ち上がりますが、天璋院はそのまま江戸で暮らす道を選びます。
下級武士だった西郷隆盛たちの才能をいち早く見出し、時代に先駆けた名君だった島津斉彬を知る人たちはその早い死を大変悔やんだと言われています。
西郷隆盛は、自分を引き立ててくれた島津斉彬の後を追って自害しようとするまで悲しみました。
島津斉彬の子孫はどうなった?
島津斉彬には、たくさんの子どもがありました。しかしその多くが若くして他界しています。斉彬の急逝もそうですが、対立していた側の人間に暗殺されたのでは?という疑いもあるようです。
一方、弟の島津久光にも、正室との間に9人、側室との間に7人の子どもがいたとされています。その中で、島津本家を継いだ長男の島津忠義の娘たちは、皇室や徳川宗家、紀州徳川家、黒田家など名だたる名家に嫁いでいます。
島津忠義の8女・俔子は、久邇宮邦彦王に嫁いであり、昭和天皇の皇后となられた香淳皇后の母君です。
島津久光の血脈は、現在でも日本のエスタブリッシュメント層の至るところに続いているといわれています。
戦国の世から幕末、明治を超えて現在に至るまで、薩摩の逞しい気風と血筋も、脈々と受け継がれているのかもしれませんね。
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