西郷隆盛の弟である西郷従道は、兄とともに明治政府で活躍した人物です。この西郷従道が建てた邸宅の一部が、現在も愛知県犬山市の「明治村」というところに残っています。
「大西郷」と呼ばれた兄とは異なった道を歩んだ西郷従道とはどんな人だったのでしょうか?ここでは、従道が建てた邸宅について迫ってみたいと思います。
西郷従道の人柄
西郷従道は、兄・西郷隆盛に劣らず、将器の才があった人物といわれています。
明治の新政府では、兄と同じように要職についていましたが、西郷隆盛が「明治六年の政変」で敗れて鹿児島へ下野したときも、自身は東京に残って政務を続けました。
いつも落ち着いた表情で対応していたという記述が残っています。西南戦争では、決起した兄・隆盛と敵対することになりましたが、「阿兄と戦場にまみえんのみ」と語り、内心は見えませんが、外見上は冷静な態度を通したと伝えられています。
また西郷従道は、人に対する礼儀も大変厚い人物だったようです。
兄の西郷隆盛にも共通していたそうですが、言語態度がとても丁寧で優しかったと言われています。隆盛の親友だった大久保利通にもとても可愛がられていたそうです。
従道邸が建てられた場所
かつて東京都目黒にあったのが、西郷従道が兄・隆盛のために建てたと言われる「西郷従道低」です。現在は、愛知県の「明治村」というところに、その一部の西洋館だけが移設され、残されています。
東京都の現在青葉台二丁目あたりは、別名「西郷山」とも呼ばれています。明治の初めに、西郷従道が付近の地形を活かした広大な庭園を造り、立派な邸宅を構えていたことに由来しています。
もともと江戸時代は、豊後の岡城主の抱屋敷(かかえやしき)だった場所で、樹木が多く茂り、三田用水の水を引いた池があるなど、景観の美しさは近郊随一と謳われたお屋敷だったそうです。その2万坪に及ぶ土地を、西郷従道は兄・隆盛の為に購入したと言われています。
当時は、洋館の他に、書院造りの和館などが配された回遊式の庭園で、東京一の名庭園と呼ばれて各界の名士たちが数多く訪れたそうです。
1889年、西郷従道が海軍大臣を勤めていた頃は、明治天皇の行幸があり、庭園で行われた相撲などを楽しまれたと言われています。
邸内には、農園や果樹園もあり、機織りやトマトソースの缶詰加工なども行われていたといいます。また西郷従道は、養蚕技術を後援しており、時の皇后もその成果を熱心にご覧になったそうです。
西郷従道邸の設備
西郷従道邸の西洋館は、清浄な池に面して建てられていたと伝わっています。建築には、日本人大工とフランス人の建築家が携わったそうです。
建具などは、ほとんどフランスからの直輸入品を使用し、軽量化を図るために、屋根は垂木を省くなどの工夫が施されていました。
さらに、建物の四隅に通し柱を配置、壁の中にレンガを積むなどして、当時では珍しい耐震設計がされていたといいます。
庭園には広く芝生が敷かれ、ヒマラヤ杉や大王松、落羽松(らくうしょう)などの大きな木々に囲まれた空間だったようです。
西郷従道の子どもも住んでいた
西郷従道の死後は次男の従徳が住み、1941年頃まで本宅として使用されていたそうです。その後は、箱根鉄道、国鉄と所有者が変わっていきますが、第2次大戦時の空襲で和館が焼失したり、名木が枯れてしまうなど、当時の面影はほとんど無くなってしまいます。
西洋館はなんとか残り、国鉄の官舎や、当時のプロ野球国鉄スワローズの合宿所として利用された期間もありました。
そして1963年、愛知県犬山市の「明治村」に移設され、その後、重要文化財として指定されました。
明治村の公式サイト(西郷従道邸)
http://www.meijimura.com/enjoy/sight/building/1-8.html
さまざまな面において、西郷従道を知る人々は、兄・隆盛に劣らぬ偉人であったと語っています。なかには、「南洲翁(西郷隆盛のこと)より偉い人」、「神様が人間に化けたような人物」と評する人もあります。
兄・西郷隆盛が成したくて成しえなかった分を、従道が継いだようにも感じられてきますね。
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