西郷隆盛といえば、生真面目でお堅いイメージを持っている人も多いかもしれませんが、数々の恋愛もあったようです。青年期には愛人もいたという説もあり、生涯で3度の結婚歴があります。
幕末、日本改革の中心にいた西郷隆盛を支えた妻とは、どんな人物だったのでしょうか?
ここでは、西郷隆盛の3人の「妻」について、少しご紹介したいと思います。
西郷隆盛・最初の結婚は24歳
島津斉彬が薩摩藩主となった翌年の1852年、父母の勧めで、同じ薩摩藩士・伊集院兼寛の姉・須賀という女性と結婚します。西郷隆盛24歳の頃です。
しかし、少ない禄高で一家を支えつつ、さらに斉彬の参勤交代に就いて江戸詰めとなった西郷との結婚生活はかなり厳しく、貧窮だったようです。1854年11月には、須賀の実家が苦労を見かねて、須賀を引き取ってしまい、離縁となってしまいました。
西郷隆盛・二度目の結婚は島妻だった
1859年、幕政の改革を謀り、挙兵しようとして追われる身となった西郷隆盛を、薩摩藩は奄美大島へ潜居させます。窮地に陥り、住職・月照と入水して一命を取り留めた西郷を、幕府の目から隠すためでした。
西郷はその島で、身の回りの世話をしてくれていた名門・龍家の一族である佐恵志の娘・於戸間金(おとまがね)と結婚します。のちに西郷が「愛」の文字を与えて、「愛加那」と名前を変えます。愛加那23歳、西郷隆盛31歳の時と言われています。
1861年には、長男の菊次郎が誕生し、愛加那は二人目の子供も身ごもります。しかし奄美大島の龍郷に新居を構え、家族で引っ越した翌日に、藩から西郷の召還命令が届くという悲劇に見舞われます。
当時、薩摩藩には島妻制度というものがあり、島妻を薩摩に連れて帰ることは許されていませんでした。西郷に限らず薩摩藩士にはそれが当然のことでもあったようです。
家族で暮らす新居へ引っ越した翌日に起こった哀しい出来事ですが、実は事前に召還の噂を聞いていた西郷が、妻子のために新居を建てたとも言われています。別れるときには、愛加那に新居と田一反を与えたそうです。
自分が島を離れたあと、愛加那たちの生活が困らないようにとの、西郷の精一杯の配慮だったのかもしれません。1862年2月、西郷は奄美大島を離れます。愛加那との約2年の短い結婚生活でした。
藩命で呼び戻された西郷ですが、2か月後には謀略にはまり、捕縛されて徳之島へ遠島を申し渡されます。西郷はここで、愛加那と長男・菊次郎に再会、生まれたばかりの第2子・菊草にも会うことができました。
ひさしぶりの親子対面を喜んだ西郷でしたが、さらに追い打ちをかけるように、沖永良部島への遠島命令が下り、親子はまた離れてしまいます。
そして1864年3月、西郷は再び藩命によって召還されることになります。沖永良部島を発って鹿児島へ戻る途中、西郷は奄美大島の龍郷へ寄って、愛加那と子供達と3泊ほどを過ごします。これが、愛加那と西郷の永劫の別れとなりました。
西郷隆盛の3人目の妻・イト
大河ドラマ「西郷どん」では黒木華さんが演じています。
1865年、西郷が沖永良部島から帰還して約1年後の37歳の時、岩山糸子(イト)と結婚します。イトはこの時21歳でしたが、再婚だったそうです。
多忙な西郷は、一年にひと月ほどしか鹿児島に戻らなかったと言われていますが、夫婦仲は良く、ふたりの間には3人の子供が生まれました。
イトは小柄な体躯だったそうですが、芯のしっかりした女性だったようです。西郷の留守中も家を守り、愛加那と西郷の子どもである菊次郎と菊草を引き取って面倒をみました。
さらに、島妻である愛加那にも、都度生活費を送っていたと言われており、それは西郷が亡くなったあとも続いていたと言われています。
1922年、イトは79歳で他界しますが、晩年も堅実で、毎日唐芋ご飯を「幸せ」と言いながら食べていたそうです。
つつましく、強く生きたイトが支えていたからこそ、西郷は国事に集中し動乱を生き抜いたと言えるような気がします。
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