同郷の親友・西郷隆盛、長州の木戸孝允と並び、「維新の三傑」と称されるもうひとりが大久保利通です。後年、西郷隆盛と袂を分かちますが、西郷の死後は明治の元勲として、政界のリーダーである内務卿の地位にありました。
明治という新時代の黎明期、これからの時代を担う責務にあった大久保利通でしたが、突如暗殺されてしまいます。大久保利通を襲った犯人は誰なのでしょうか?その理由とは?ここでは、大久保利通の暗殺について、考察したいと思います。
大久保利通と西郷隆盛
大久保利通は、1830年に琉球館附役の藩士・大久保利世と妻・福の長男として誕生しました。子供の頃から郷中や藩校造士館で西郷隆盛らと一緒に学問を学び、同志となります。身体はあまり丈夫な方ではなかったようですが、討論や読み書きなどは郷中のなかでも抜きん出ていたといいます。
大久保利通と西郷隆盛は、ともに薩摩藩士として明治維新を成し遂げた盟友でしたが、その後の政治の方向性について少しずつズレが生じるようになります。やがて二人は「征韓論」についても、激しく対立するようになりました。
1877年、西郷隆盛は陸軍育成施設「私学校」の士族たちが起こした反乱に加わり、政治界のトップにいた大久保利通と戦うことになります。これが「西南戦争」です。
西郷隆盛はこの西南戦争で自決し、「維新の三傑」であったもうひとりの木戸孝允も病気で帰らぬ人となります。内乱を生き抜いた大久保利通は、内務卿として政治に尽力しますが、カリスマ的な人気を博した西郷隆盛を追い詰めた人物として、西郷派の人たちから恨まれることになったのです。
暗殺は避けられた?紀尾井坂の変
大久保利通は、落ちつきを見せ始めた明治のその後を考えていました。事件当日の朝も、「30年計画の構想」など、訪問を受けた福島県令と政策について意見を交わしていたといいます。
午前8時頃、大久保利通は霞が関の自邸から、明治天皇に謁見するために2頭立ての馬車で、赤坂仮皇居へ出発します。途中、紀尾井坂という場所で、元士族による6名の手に掛かり、大久保利通は無残な最期を遂げることになるのです。
※現在の紀尾井坂
暗殺犯6名は、馬の足を切り馬車を止め、御者としてついていた大久保の従者を刺殺します。異変に気付いた大久保は逃げようとしますが、暗殺犯の首謀者と言われる島田一郎という人物に切りつけられ、馬車から引きずりおろされたといいます。
絶命した大久保利通の身体には、約16か所に及ぶ刀傷があり、そのほとんどが頭部に集中していたと言われています。
主犯の島田一郎は、征韓論で西郷隆盛に深く共鳴し、政治活動を行っていた人物だったとも言われており、西郷隆盛を死に追いやったとして、大久保利通に深く恨みを抱いていたとされています。
また、大久保利通が紀尾井坂を通らず、赤坂見附を通っていれば、暗殺は避けられたという見方もあります。「人通りが多く、危険」という理由で、回り道をして紀尾井坂を選んで通ったという説です。それが裏目に出て、暗殺が行われてしまったというのは、哀しくも皮肉な話です。
明治の、日本の未来を夢見て
西南戦争後、大久保利通は「暗殺される恐れがある」と警告を受けていたそうですが、特に護衛などはつけていなかったようです。
暗殺されるその直前には、西郷隆盛からの手紙を馬車の中で読んでいたそうです。そしてそれに対する返事を書いた手紙も持っていたという話もあります。
最後は理想が違えた大久保利通と西郷隆盛ですが、国の未来を思って行動したという点は同じでした。大久保利通は、西郷隆盛の訃報を聞いて号泣したそうです。
暗殺の理由として、島田一郎は大久保利通の独裁政治を挙げていますが、大久保は権力をかざして私利私欲に走った政治家ではなかったようです。
私財をなげうって公共事業を推進していたため、亡くなった後は、現在に換算して1億を超す借金が残ったといわれています。しかし、大久保の志を知る債権者たちは、その借金の取り立てをしなかったそうです。
大久保利通の志もまた、多くの人に支持されていたことを物語っています。
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