幕末の武士から明治には政治家としても活躍した西郷隆盛ですが、テレビドラマの中などでは親しい人たちから「吉之助さん」と呼ばれていたりします。「隆盛」と「吉之助」の違いは何でしょうか。なぜ別の呼び方があるのでしょうか?
調べてみると、西郷隆盛の呼び方はこの2つだけではないことがわかりました。ここでは、西郷隆盛の「名前・本名」ついて、少しご紹介したいと思います。
武士の名前
西郷隆盛は、1828年・文政10年に薩摩藩の下級藩士、西郷吉兵衛隆盛の長男として誕生しました。この頃の武士は、幼少期の名前を別に持っていました。有名なところでは、徳川家康の幼名「竹千代」などがそうです。
西郷隆盛にも幼名がありました。「小吉(こきち)」と言います。これは西郷家の嫡男が名乗る名前だそうです。
そして大人になる儀式“元服”で「西郷吉之助隆永(さいごうきちのすけたかなが)」となり、これが本名“諱”となります。「吉之助」は、晩年まで“通称”として使用されていたようです。
しかし、この先も「西郷隆盛」に成るまでに、いろいろな名前に変化をしていきます。それは“通称”であったり“諱”であったりします。さらに間違いから本名を変えてしまったこともあるという逸話まであり、この時代の名前のあり方については、現代とはかなり異なる事情があるようです。
「西郷隆盛」になる前の名前
小吉は、元服して「西郷吉之助隆永」となったのち1853年に亡くなった父親の家督を継ぎ、「西郷善兵衛(さいごうぜんべえ)」と名乗ります。1856年には、当主として世間一般に使う「西郷吉兵衛(さいごうきちべえ)」を通称としました。
1858年に、主君である島津斉彬が急逝したのち、幕府の改革を謀ろうとして追われる身となった西郷吉兵衛は、捕吏の目をごまかすために藩命によって「西郷三助(さいごうさんすけ)」と改名させられます。
前途を悲観して入水し、一命をとりとめた西郷三助は、幕府から身を隠すために、職を免じられて奄美大島に潜在することになります。12月末日出航の際には名前を「菊池源吾(きくちげんご)」と名乗っています。「菊池」というのは祖先の姓だそうです。
1862年1月、島津久光から召還され、鹿児島へ戻ってきますが、やはり幕府に生存が発覚しないように、名前を「大島三右衛門(おおしまさんえもん)」と改名します。
しかし同年6月には島津久光の怒りを買い、徳之島へ、そして沖永良部島へ遠島になります。その際に、名前を「大島吉之助(おおしまきちのすけ)」に改名させられました。
1864年、赦免召還となって鹿児島に戻った大島吉之助は、薩摩で重要な役を担うようになり、10月に御側役に就任した際、姓を西郷に戻し「西郷吉之助(さいごうきちのすけ)」と改名しました。
1867年には、朝廷からの密勅が出された討幕の請書には、本名の「西郷吉之助隆永」ではなく「西郷吉之助武雄」という署名がされています。
そして1869年、朝廷から正三位に叙せられた際、「西郷隆盛」という名前を用い、その後は「隆盛」をとおしました。
西郷隆盛にとって「名前」とは
「隆盛」という名前は、実は父親の名前だそうです。元服した際の“諱”は「西郷吉之助隆永」ですので、「隆永」のはずですが、正三位を賜った際、宮内庁が親友の吉井友実に西郷の“諱”を尋ねたところ、「隆盛」と誤って答えてしまい、西郷本人もそれをそのまま承諾し、以後「隆盛」を“諱”としたといいます。
本人は「小事にこだわらぬ、おおらかな人柄」と伝えられていますが、本名に関してまで驚くほど寛容だったのは、それまでの改名の歴史があるからでしょうか。
追われ、弾かれ、生存を隠されても国を改変する大事を成した生涯、今も讃えられる史実とその時々の「名前」の遍歴には確かに大きなドラマを感じてしまいますね。
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