明治維新の立役者・大久保利通は、薩摩藩士・早崎七郎右衛門の娘・満寿子と28歳の時に結婚します。
明治の元勲として、内務卿の地位にのぼりつめ、政治に関しては非情で策略家の印象を持つ方も多い大久保利通ですが、家庭ではどんな人物だったのでしょうか?
ここでは、大久保利通の妻・満寿子と家族のエピソードについて、少しご紹介したいと思います。
大久保満寿子という人物像
「明治の三傑」に称されるうちの一人・大久保利通ですが、若いころは「お由羅騒動」で父親とともに罷免され、謹慎処分を受けたこともありました。
藩主が島津斉彬に治まると、謹慎を解かれ、記録所に復職して御蔵役となります。1857年には西郷隆盛とともに、徒目付となり、大名の江戸城登城の際の観察や、役人の執務の内偵などを行う仕事に就きます。
同じ年、大久保利通は28歳にして満寿子と結婚します。1861年には、利通は島津久光に認められて御小納戸役という、久光の身の回りのお世話をするお側役に抜擢されます。
その才覚を認められて、出世していく夫・大久保利通の人となりやエピソードが多く残っているのに対し、妻・満寿子については、ほとんど記述などが残っていないとされています。
しかし、大久保利通の人生やその周辺の生活の様子から、想像できる部分も多くあります。
大久保利通は、なにかと細かく、神経質な一面もある人物だったと伝わっています。また、若い頃から胃が弱かったせいか、食べ物にもこだわりが強く、喘息の持病があったにもかかわらず煙草をよく吸っていたそうです。妻として、利通の身の回りについてはかなり気を遣っていたことが伺えます。
さらに利通が出世していくにしたがって、多忙で家を空けることが多くなっていったため、同居していた父母や家族の世話を、ほとんど満寿子が担っていたかもしれません。
大久保利通を薩摩で支え続けた妻・満寿子
夫・大久保利通が西郷隆盛たちと成し遂げた明治維新後も、満寿子は東京を拠点に置く利通と離れて鹿児島で暮らします。大久保利通の親友であった西郷隆盛の妻・いととも交流があったようです。
満寿子は利通との間に生まれた子どもたちと一緒に、利通の東京での活躍とその身を案じつつ暮らしていましたが、1873年、明治六年の政変が起こります。
この政変により、大久保利通と西郷隆盛は決別することになり、西郷隆盛たちは鹿児島へ戻ってきます。それに対して、大久保利通は内務省を設置し、自らが内務卿として実権を握ります。
西郷隆盛が下野した際、多くの人が西郷を慕って同行してきたと言いますから、鹿児島に残された大久保利通の妻・満寿子の立場と心労は、大変なものがあったと推測できます。
家庭での大久保利通は子煩悩?
故郷・鹿児島を追われるように、満寿子は上京します。夫・利通から東京で暮らすように求められて、今度は内務卿の妻として、東京で一緒に暮らす決意をしたと伝わっています。
ふたりの間には5人の子どもがありましたが、大久保利通は家では大変な子煩悩だったそうです。出勤前のわずか10分ほどの時間にも、子どもを抱き上げて慈しんだといいます。
また、利通が帰ってくると、出迎えた子どもたちが利通の靴を脱がせようとするのを、わざと踏ん張って脱がせないようにし、勢い余った子どもが転がったのを見て笑った、というエピソードが残っています。
大久保利通も、家の中では子供たちと一緒によく遊び、笑っていたそうです。
公務で多忙な大久保利通でしたが、土曜日は自らの妹たちも呼んで、家族みんなで夕食を摂ることを何よりも楽しみにしていたといいます。
大久保利通のあとを追ったような終焉
1878年、紀尾井坂の変により、大久保利通は47歳の生涯を終えます。満寿子は、その前から心労や体調の不良などがあったとも言われていますが、まるで後を追うように、利通の暗殺から約7か月後に亡くなりました。
さまざまな脅迫が渦巻く中、護衛もつけずに出勤する夫を常に心配していたといいます。
動乱を生きた夫・利通を最後まで支え続けた満寿子でしたが、満寿子もまた、家族思いの利通に支えられて人生を歩んでいたのではないでしょうか。
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