幕末の戊辰戦争と、士族の反乱・西南戦争、二度の大きな戦いに生涯を捧げたような西郷隆盛の一生ですが、その最後にはなにを語ったのでしょうか。
ここでは、西南戦争で最期を迎えた西郷隆盛の「最後の言葉」について、考察したいと思います。
戦いに積極的でなかった西郷隆盛
明治維新を成し遂げ、政府の要人として奔走していた西郷隆盛ですが、同郷の大久保利通や他の政府役人たちと政治の方針について対立してしまいます。
板垣退助たちが掲げる、朝鮮を武力によって開国させようとする“征韓論”と、大久保利通や木戸孝允たちが掲げた、国内をまずは堅実なものにしようとする“内治優先論”です。
西郷隆盛は“征韓論”派でしたが、武力ではなく使節を派遣して開国へ導こうと考えていたようです。
この「明治六年の政変」で、西郷隆盛は辞職し、故障・鹿児島へ下野しました。当時不遇を強いられていた士族たちの多くは西郷を慕い、共に鹿児島へ集まるようになります。
これを見て、明治政府は反乱が起きるのではないかと危惧し始めます。
政府が勝手に鹿児島の弾薬を運び出そうとしたことや、西郷隆盛を暗殺しようとしたことなどが引き金となり、西南戦争が勃発します。
西郷は、戦争に積極的ではありませんでしたが、なかば青年たちに担ぎ出された形で戦いに参加したのではとも言われています。
最終の地は故郷・鹿児島
最新式の武器や圧倒的多数の兵力を前に、戦局は薩摩郡の劣勢でした。
西郷隆盛たちは、田原坂の戦いで大敗を喫し、徐々に追い詰められて鹿児島市内の城山へ追い詰められていきました。
この時、すでに手持ちの武器は小銃150丁ほどと、戦闘要員も300人ほど、大砲もわずかばかりだったと伝わっています。
西郷隆盛の助命嘆願のために、薩摩郡の幹部が政府軍に近づきましたが捕えられてしまい、その願いは届きませんでした。しかし、西郷隆盛には最初から助命の意志はなかったようです。
今は「西郷洞窟」と呼ばれている城山の山頂より少し東側に下ったあたりの洞窟で、西郷隆盛たちは最後の5日間を過ごします。
立てこもりの3日目には「此城を枕として決戦可致候」という言葉を全軍に発します。「ここで命を捨てる覚悟を固めよ」という意味です。
4日目には西郷隆盛の元へ、降伏を促す伝言と、西郷隆盛の自決を進言する書簡が届いていたそうです。西郷たちはこの夜に最後の宴を催します。砲火を花火のように打ち上げ、舞を舞ったりして祝宴のようだったと伝えられています。
明けて5日めの午前3時50分頃、政府軍の一斉攻撃が城山に向けて開始されました。1時間ほどで頂上も占拠され、囲まれてしまった西郷隆盛たちは、洞窟を出て前に進んでいきました。300mほどの場所で、西郷は2発の銃弾を受けます。
動けなくなった西郷隆盛はもはやこれまでと悟り、傍らにいた側近の別府晋介に伝えました。「晋どん、もうここいらでよか」。
意志をくみ取った別府晋介は頷き、「ごめんやったもんせ!(お許しください!)」と介錯の刀を振り下ろします。1877年9月24日、すべてはまだ夜が明ける前のことだったそうです。西郷隆盛、満49歳の生涯でした。
西郷隆盛の首は、持ち出されるのを恐れて折田正助邸門前に埋められたという説があります。その後検分がなされ、手厚く葬られたそうです。
西郷隆盛の覚悟
「敬天愛人」という、西郷隆盛の座右の銘があります。「天を敬って人を愛する」という意味だそうです。
西郷隆盛は、できれば戦いを避けたかったのです。勝ち目のない戦争だとわかっていたのかもしれません。
しかし、自分を慕ってくる士族たちを見捨てることはせず、「わしの身体は、お前たちに差し上げもんそ」と、最後まで共にいることを決意します。
時の明治天皇は、西郷隆盛の死の知らせを聞いた際、「西郷を殺せとは言わなかった」とつぶやき、悼んだと言われています。西郷隆盛の人柄は、明治天皇にも深く愛されていたのです。
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