現在は、世界的に見ると平和な国であるといえる日本ですが、過去に大きな大戦があったことは、ご周知のとおりですね。
政治家一族の安倍首相の祖父・岸信介元首相は、その頃の日本を牽引した渦中にいた人物とされています。デリケートな時代のお話ですが、少し迫ってみたいと思います。
岸信介元首相が育まれた環境とは
岸信介元首相は、1896年(明治29年)11月13日に、山口県吉敷郡(現在の山口市)に誕生します。当時、現在の公務員にあたる仕事に就いていた、父・佐藤秀助の第5子であり次男だったそうで、兄弟も多くいたようです。実弟には佐藤栄作元首相がいます。
岡山市の小学校から岡山中学校へ進学しますが、学費や生活費をサポートしてくれていた叔父が急逝したことから、山口へ戻り、山口中学校へ転校したそうです。なかなか大変な生活だったようですね。
岸信介元首相が中学3年生の時に、婿養子だった父親の実家・岸家の養子となります。山口中学校を卒業して、高等学校受験準備のために上京しますが、映画(当時は活動写真)やお芝居に夢中になって勉強がおろそかになった時期もあったという逸話があります。
政治家という選択
その影響もあってか、入学試験の成績はあまりよくなかったといいます。しかし、高等学校に入学してから大学にかけては、のちに憲法改正に携わることになる学者や、政治家となった人物たちと、成績を競いあうほどの秀才ぶりだったと語り継がれているそうです。
とくに、東京帝国大学(のちの東京大学)法学部に入学してからは、法律学の勉強に精力を費やしたそうです。1920年7月に卒業する際、その後も大学に残るよう周囲から求められますが、岸信介元首相はあえて官界を選択します。
しかも、当時のさまざまな国内行政を担う内務省ではなく、産業行政を推進するために設置された農商務省に入省したことに、周囲は大変驚いたそうです。
農商務省に入ってすぐに、岸信介元首相は同期生20人のリーダー格となったといいます。その後は着々と商工省課長、工務局長へ就任していき、1936年、当時の満州国へ渡満することになります。肩書きは、満州国国務院実業部総務司長でした。
入閣と軍部との関わり
当時は日本にも軍隊がいて、絶大な権力を握っていました。岸信介元首相は、この地で軍・財・官界にまたがる広範な人脈を形成していくことになります。そのころ、満州国の5人の大物を「弐キ参スケ」と称していたそうですが、その一人に数えられています。
1941年、東条内閣が発足し、岸信介元首相は商工大臣として入閣を果たします。そこで、第二次大戦中の物資動員を扱うことになったといいます。
戦局が激化する中で、軍部と岸信介元首相の関係にも、溝が生じ始めます。反東条となった岸信介元首相は、閣内でもずっと他の官僚たちと共に戦っていたようです。
終戦後、山口に帰郷していた岸信介元首相は、連合国軍からA級戦犯被疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に拘置されます。
東京裁判で主張した語録も多く残されています。最終的には、開戦を決めた共同謀議に参加していなかったことや、東条内閣を倒閣した功労者であること、また、元米国駐日大使から、人間として信頼を得ていたことなどが考慮され、不起訴のまま無罪放免されたそうです。
公職を追放され、表だった政治活動はできなくなっていましたが、1952年にサンフランシスコ講和条約の発効に伴い、公職追放を解除されるとすぐに、岸信介元首相は「日本再建連盟」を発足し、会長となります。
1957年、病に倒れた石橋首相のあとを引継ぎ、全閣僚を留任したままの「居抜き内閣」で、自身も外相兼任のまま、第56代内閣総理大臣に就任します。
「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介元首相には、「政治家は悪運が強くないといけない」など、豪胆な語録も多く、昭和という時代の豪傑であったことがわかりますね。
安倍晋三、岸信介両氏の家系図につきましてはこちらをご参照ください。
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