安倍総理は、政治家のお家柄ということは知られていますが、特に母方の祖父・岸信介元総理は有名ですね。一方、父方の祖父については、ほとんど紹介されません。
ここでは安倍総理の父方の祖父・安倍寛氏について、少し触れてみたいと思います。
波乱万丈の少年期、青年期
安倍首相の父方の祖父・安倍寛氏は、1894年、山口県大津郡に生を受けます。
母親は、江戸時代に大庄屋を務めた地主の名門で安倍家の“中興の祖”と呼ばれた安倍慎太郎氏の妹です。安倍慎太郎氏は、明治時代初頭、山口県議会議員として政治に携わりましたが、32歳の若さで逝去しています。父は都内で有名な名門、椋木(むくのき)家からの婿養子でした。
しかし安倍寛氏が4歳までのうちに相次いで両親が亡くなったため、その後は伯母に育てられたそうです。
安倍寛氏は、1921年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、自転車製造会社を経営しますが、関東大震災により工場が壊滅してしまいます。
その後、本堂静子さんと結婚し、長男をもうけます。この人物が、のちに「悲劇のプリンス」と呼ばれた安倍晋太郎自民党幹事長、安倍総理の父親です。
安倍晋太郎と長男・寛信氏
病気がちで結婚もうまくいかなかった?
また、安倍寛氏は若い頃、大病を患い健康面はあまり丈夫ではなかったようです。さらに、奥様は陸軍軍医監本堂恒次郎氏の長女でしたが、息子の晋太郎氏が生まれて80日後には離婚するという事態になったそうで、以降は独身で過ごされたとのことです。
そんななか、昭和8年には大病を抱え養生中の身体で山口県日置村の村長となります。10年には、村長のまま県議として担ぎ出されたとのことで、当時は周囲から大変な信頼を得ていたことがうかがえますね。
戦争反対の意思を貫く
いよいよ安倍寛氏は政治の世界に本格的に入っていくことになります。昭和3年に普通選挙法による初の総選挙にしますが、ここでは落選しました。
その後、山口県日置村の村長をしながら昭和12年4月の総選挙に無所属で立候補し、のちに第66代内閣総理大臣となる三木武夫元総理とともに初当選を果たします。
太平洋戦争中の昭和17年には、東条英機内閣下で行われた翼賛選挙にて軍閥主義を批判し、無所属・非推薦という不利な立場のなか出馬します。そして最下位ではあったものの2期連続の当選を果たします。
翼賛選挙というのは、東条内閣が議会を完全に操縦するために行った候補者推薦制度だそうです。当時は軍部が強かったため、戦争に反対することはとても大変なことだったと思います。
そんな中、親友であった三木武夫元総理らと共同で国政研究会を創設して、戦争反対や東条内閣退陣要求などを主張したそうです。
「大津聖人」と呼ばれた人格者
また、大政党の金権腐敗を嫌い、非難するなど、清廉潔白な人格者として有名だったそうです。地元では「大津聖人」とか「昭和の吉田松陰」などと呼ばれていて、周囲にとても人気が高かったとのことです。
息子の安倍晋太郎氏と、岸信介元総理の娘・洋子さんの結婚話が持ち上がった際には、岸信介元総理から「大津聖人の息子なら心配ない」と、太鼓判を押されたと言います。
安倍寛氏は終戦後、日本進歩党に所属し、昭和21年4月の総選挙に向けて準備をしていましたが、直前に心臓麻痺で急死されています。昭和8年に就任した山口県日置村の村長は、没するまでずっと務めていたそうです。
このエピソードからでも地元の安倍寛氏に対する信頼の厚さがわかりますね。安倍総理が地元から絶大な支持を得ているのにも影響しているのかもしれません。
政治家としては、息子である安倍晋太郎元総理が後継者となるようですが、実は晋太郎元総理が国政の場に立ったのは、安倍寛氏が亡くなってから12年も経った後ということです。
安倍家の家系図につきましては下記の記事をご参照ください。
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