島津斉彬は、稀代の名君として語り継がれる人物ですが、志半ばで若くして他界してしまいます。西郷隆盛は、その後を追って自害を考えるほどでしたが、悲しみを乗り越え、志を引継ごうと亡くなった後も忠誠を尽くします。
しかし、そのあとに藩権を握った斉彬の義弟・島津久光と西郷隆盛の主従関係は、なかなかうまくいかなかったようです。
ここでは、西郷隆盛と島津久光の難しい関係について迫ってみたいと思います。
島津久光とは、どんな人物だったのか?
島津久光は、島津斉興の五男として、側室・お由羅の方を母に1817年に鹿児島城で誕生します。成長すると、藩主・斉興の後継の地位をめぐり、久光派の派閥と義兄の島津斉彬を擁立する派閥とが争いを起こし、世に言う「お由羅騒動」が勃発しました。
結果、幕府の介入で義兄の島津斉彬が新しい藩主となりましたが、実は本人たち同士の仲は、あまり悪くなかったとみられています。家督相続をめぐり、島津久光は反斉彬派に担ぎ出されて巻き込まれた、という見方があるようです。
また、島津久光も、斉彬と同様に大変学問好きだったそうですが、斉彬が当時先進的な蘭学を学んだのに対し、久光は伝統を重んじる国学に通じていたと言われています。そうした考え方の違いが、双方の価値観にも大きく影響したのかもしれません。
1858年に島津斉彬が逝去すると、その遺言により、久光の嫡男・忠徳(のちの忠義)が藩主となります。島津久光は藩主の父として実権を握ることになり「国父」と呼ばれるようになります。
島津久光は藩内を強固にするために、中下級の藩士グループ「精忠組」から、大久保利通ら中核メンバーを登用します。その時、西郷隆盛は、精忠組の中心ともいえる存在でした。
島津久光の性格は?
島津久光は、大変気性の荒い性格だったと言われています。1862年、薩摩藩の尊皇派の過激分子の粛清として「寺田屋事件」を起こし、同年、久光一行の行列を妨害したとして、薩摩藩士がイギリス人を殺傷する「生麦事件」が起きます。生麦事件は、のちに薩英戦争に発展していきます。
また、島津久光は、亡き義兄・島津斉彬の意志を継ぐとして、公武合体運動推進のために、兵を率いて上洛しようとします。その時、反対したのが西郷隆盛でした。西郷隆盛は久光に向かって計画の甘さを指摘し、「恐れながら、久光様は“田舎者”ですので」と、侮辱するような発言をしたとされています。
島津久光は、義兄・斉彬と比較して人気がなく、田舎者、とまで揶揄されて、激怒します。さらに、上洛に先発した西郷隆盛は、「待機せよ」という久光の命令を無視して、暴動を制するために独断で大阪へ行ってしまいます。
西郷隆盛にしてみれば、自分を見出してくれた島津斉彬とはあまりに器が違い過ぎる主であったことが、馴染めなかった要因でもあったようです。
命令を無視して上坂した西郷隆盛は、島津久光に激しく非難され、沖永良部島へ島流しにされてしまいます。しかし、大久保利通や小松帯刀らの嘆願があり、西郷隆盛は1864年に再び召還されます。
これは島津久光にとっては苦渋の決断であり、西郷を許したとはいえ逆上を抑えきれず、銀製のキセルの吸い口に歯形がつくほど悔しがったという逸話が残っています。
現在につながる島津家
島津久光は、明治維新後、「廃藩置県」に抗議し、一晩中自宅で花火を打ち上げたというエピソードが残っています。また、「廃刀令」にも反発し、生涯髷を切らず、帯刀、和装を貫いたそうです。
なにかと政府を悩ませた存在でもあったようですが、爵位を授けられるなど、島津久光は最後まで最高級の待遇を受けます。1887年に71歳で亡くなった時には国葬でおくられました。
島津久光の嫡男・忠義の娘たちは、皇室や徳川宗家、紀州徳川家など名だたる名家に嫁ぎ、息子や孫も日本の主要な地位で活躍しています。
西郷隆盛や島津斉彬に比べると、確かに歴史的な評価は低いように思えますが、自分なりの意志を頑固に貫き通した島津久光もまた、幕末・明治の世に大きな影響を与えた人物であるのは間違いない事実です。
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