最後の「維新の三傑」大久保利通は、1878年、紀尾井坂の変で石川県士族の島田一郎を主犯とする6名の暗殺者に命を奪われました。
その最後は大変凄惨なものであったと伝わっています。ここでは、大久保利通が暗殺された時の死因と、その遺体が眠る墓所について、考察したいと思います。
大久保利通の死因
西南戦争後の大久保利通のもとには、当時、幾多の脅迫が届いていたと言います。ほとんどが、西南戦争で戦死した西郷隆盛を支持する一派からでした。
西郷隆盛と決別し、自身は内務卿という最高位に就いた大久保利通に、恨みを持つ人間は他にも多くいたようです。しかし、大久保は特に護衛をつけることもせずに、いつも2頭立ての馬車に従者をつけるのみで出勤していたといいます。
1878年5月14日、大久保利通は、異変に気づいたところを攻撃され、馬車から引きずり降ろされます。ケガを負った大久保は、それでも立ち上がり、「無礼者!」と大声で一喝したそうです。しかし、6人は一斉に斬りかかり、大久保利通は日本刀でめった刺しにされてしまいます。
最後は、介錯として短刀が大久保利通の咽喉を貫きました。その傷は深く、大久保の首を貫通し、地面に突き刺さっていたそうです。そしてこの一撃が、直接の死因となったと言われています。
しかし、遺体の損傷は激しく、刀の傷は16か所に及び、そのほとんどが頭部に集中していました。直後に現場に駆けつけた前島密は、「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と、その凄惨さを語っています。
大久保利通の遺体が眠っているのはどこ?
事件翌日の5月15日、大久保利通は正二位右大臣という贈位を受けます。17日に、ともに襲撃された従者・中村太郎との葬儀が行われました。大久保邸には1200名近くが参列し、近代日本史上最初の国葬級の葬儀となったと伝わっています。
大久保利通の墓所は、実は故郷・鹿児島ではなく、東京の青山霊園にあります。西南戦争で、西郷隆盛と敵対関係にあった大久保利通は、地元・鹿児島に受け入れられず、青山霊園に埋葬されました。
西郷隆盛を死に追いやったのは大久保利通だ、という根強い感情が恨みとして残っており、鹿児島には近年まで納骨もできなかったそうです。さらに、襲撃された際に泣きわめいて逃げまわった、というひどい噂も広められてしまいます。
西南戦争が始まったころ、大久保利通は反政府軍のリーダーが西郷隆盛だと信じられず、西郷を説得するために鹿児島に乗り込もうとしたそうです。しかし、明治政府に止められ、会うことが叶いませんでした。
西郷隆盛が亡くなった後も、大久保利通は、西郷と生前やりとりをした手紙を大切に持ち歩き、暗殺された時も手元に持っていたと伝わっています。
幼いころからともに日本の未来を夢見ていた大久保利通と西郷隆盛は、政治的に別れることになりましたが、お互いを思う絆は死してなお強く結ばれていたと感じられます。
大久保利通の真実
大久保利通を暗殺した6名の実行犯は、大久保を悪として襲撃する理由を記した斬奸状を持っていました。一部では西郷隆盛に近しい政府関係者が黒幕にいたのでは、という説もあります。
しかし、大久保利通は、斬奸状にあるような権力を振りかざして私腹を肥やすようなことはなく、むしろ私財をなげうってまで国務に勤めていました。
また、大久保と一緒に殺された従者の中村太郎という人物は、身よりのない孤児だったそうです。大久保は名前もなかった少年を、御者として自身の側に置き、仕事を与えました。いまは青山霊園で、大久保利通のお墓の奥に眠っているそうです。
大久保利通は、計略家で非情な人物としてイメージが先行することがありますが、西郷隆盛とともに育った薩摩での郷中の教えや気質を持ち続けた、清廉潔白の人物だったのかもしれません。
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