西郷隆盛といえば、何度も島に流されたり政府から追われたりする人生を送っています。戦いたくなかったであろう敵と戦わざるをえない状況になったり…と、かなり忍耐を必要とした人生ともいえるでしょう。
時には、世を儚んで自らの命を絶とうとまで考えるほど繊細でもあります。
それでも、関わる人々から慕われ、尊敬を集めた西郷隆盛とは、どんな性格だったのでしょうか。語り継がれる“西郷どん”の人となりとは?
ここでは、現代に語り継がれる西郷隆盛の性格について、迫ってみたいと思います。
西郷隆盛・少年期から培われた信念
西郷隆盛は、少年時代に別の郷中仲間とのケンカの仲裁に入り、右腕の神経を切る大けがをします。一命は取り留めますが、以後刀を握ることができなくなり、武術を諦めざるをえませんでした。
西郷は絶望しますが、それなら学問で身を立てようと奮闘します。悔しい思いをしながら猛勉強を重ね、絶望から這い上がる強さを養っていきます。
元服したのちは、郡方書役助という仕事に従事しますが、同僚の不正を知り、上役に直訴したというエピソードがあるそうです。正義感の強い西郷の、実直さがあらわれています。
また、自分を見出してくれた島津斉彬には、大変忠実に仕えており、養女・篤姫が将軍家へ輿入れする際の手配を任されるなど、厚い信頼のもと、有能ぶりをいかんなく発揮します。
その真っ直ぐすぎる西郷の一念を心配してか、斉彬は「西郷はとても自尊心が強く、自分(斉彬)でなければ使いこなすことは困難だろう」と語ったと言われています。
事実、斉彬が病に倒れ、亡くなった後を継いだ島津久光に対しては、「じごろ(田舎者)」と言い放ったとも伝えられ、主君として認めなかったところがあったようです。藩の忠臣ではなく、藩を治めるにふさわしい主君に対して忠義をつくす、という信念を西郷隆盛は持っていたのかもしれません。
西郷隆盛・情の厚さと優しさ
一方で、西郷隆盛は大変情に厚い人物だったと伝えられています。前述の、自分を取り立ててくれた島津斉彬が病に倒れて逝去した際には、自身も後を追って殉死しようとします。
その時、付き合いのあった月照という僧から「斉彬公の御遺志を継ぐことこそが忠義である」と諭され、思いとどまったそうです。
しかし、その僧・月照も、安政の大獄で追われる身となります。逃げきれないと悲観した西郷と月照は、共に入水を計りました。すぐに救助されて西郷は運よく蘇生したものの、月照は亡くなり、西郷も回復にひと月近くかかったと言われています。
奄美大島の潜居先から鹿児島へ戻る際には、西郷は島妻とした愛加那に対して、生活に困らないように新居と田などを与えました。その後も、島に残された愛加那のために定期的に生活費を送っていたそうです。
西郷は身内や味方には大変優しく、どんな人の話にもきちんと耳を傾ける度量の大きい人物だったと言われています。それが、周囲から信頼される所以でもあったようです。
西郷隆盛・明治維新後の生き様に反映された性格
薩長同盟が締結され、時代が明治維新へと動いていき、西郷の手腕も大いに発揮されますが、敵に対してはかなり容赦のない一面も持っていたようです。
策略家・謀略家としても知られており、前述の優しい西郷とは異なる、二面姓を持った人物だったと言えそうです。時代と、自身が歩んできた人生経験が背景にあった所為かもしれません。
明治を迎えてのち、西郷自身は要職につき多額の報酬を得ていましたが、それまで尽力していた元武士たちの生活は困窮を極めていきました。西郷は昔のままの清貧な生活を続け、困窮する人々のための活路が見出せるように様々に活動したと言われています。
西郷と同じように、明治維新後、高官に取り立てられて豪奢な生活を送る人が多くいたようですが、西郷はこれを嫌い、「高官の堕落」と激しく糾弾したと伝えられています。
反乱軍とともに西南戦争に参加したのは、自分を慕ってくる弱い立場の人たちを守るための、西郷が貫き通した「信念」だったとも言われています。
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