幕末から明治にかけて、日本は大きな内乱を経験します。幕末、倒幕を掲げた薩摩・長州と、幕府を守ろうとした武士たちの戦いは、「官軍」(倒幕派)の勝利で終結しましたが、明治政府になり「士族」となった元武士たちによる不満は増大していきました。
ここでは、幕末に起きた内乱「戊辰戦争」と明治に起きた反乱「西南戦争」について、その違いや関わった人々に迫ってみたいと思います。
戊辰戦争のはじまり、鳥羽・伏見の戦い
幕末1853年、ペリー提督率いる黒船の来航により、国内は不安定な状態が増していきます。続く“安政の大獄”を主導した大老・井伊直弼が“桜田門外の変”で暗殺されると、江戸幕府の権威はついに失墜します。
1867年10月、幕府は公武合体を推進していましたが、公家の岩倉具視らの働きかけで、朝廷から倒幕と会津桑名討伐の密勅が下ります。同日、徳川慶喜は、朝廷に政治を返還しました。大政奉還です。
しかし、名目上は朝廷を中心にした政治という形態で、実際には全国の藩士が集まって政治を決めていました。徳川家将軍も、当然ながら軍隊・土地を一番多く持つ権力者として政治に参加しており、実質徳川家の政権が続いているような状況でした。
大久保利通と岩倉具視は、御所内の小御所で行われた会議で、「王政復古の大号令」という勅書を発します。徳川家の土地などを朝廷に差し出すように命じたのです。徳川慶喜は、朝廷に恭順の意志を示す体をとりつつ、復権に向けて動き出します。
1868年1月、京都の鳥羽街道を封鎖していた薩摩兵と旧幕府軍の兵が接触したことを機に、戦闘が始まります。幕府側、桑名・会津の兵と、討幕側の薩摩・長州の激しい戦いとなり、京都・橋本の戦いで、旧幕府軍は総崩れとなり、大阪へ退却していきました。
徳川慶喜は、戦闘には積極的ではなかったと言われていますが、夜中に僅かな側近のみを連れて、大阪城を脱出し幕府の軍艦で江戸へ戻ってしまいます。
これを知った旧幕府軍は戦闘意欲を失い、各自領へと帰還しました。翌日、朝廷は慶喜追討令を発布し、旧幕府は朝敵となりました。
江戸城無血開城から函館・五稜郭陥落まで
3月、新政府軍は江戸城総攻撃を計画していましたが、条約諸国は貿易に対する影響などを恐れていました。江戸の町が戦場となることに、各方面からも総攻撃の中止が求められました。
旧幕府の全権を任された勝海舟と、新政府軍の参謀だった西郷隆盛は会談を設けます。旧幕府側が降伏条件をのんだことにより、総攻撃は中止され江戸城は無血開城となりました。
しかしその後も、新政府軍と戦う人々は多くいました。争いは江戸から会津、東北、北海道・函館の五稜郭へと移っていきました。1869年5月、旧幕府軍を率いた榎本武揚たちは新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終結しました。この戦いは、1868年の干支・戊辰から「戊辰戦争」と呼ばれています。
西南戦争とは?
戊辰戦争では倒幕派の中心人物でもあり、江戸城無血開城に貢献した西郷隆盛ですが、「明治六年の政変」で明治政府と対立し、親友の大久保利通と決別、鹿児島へ下野することになります。
「武士」は、明治政府のもと「士族」という身分になりますが、武士として持っていた特権が次々と政府に剥奪され、反乱を起こす人たちが出始めます。その内の多くの人が西郷隆盛を慕って薩摩に集まっていきました。
西郷隆盛は武士の気風などを教育する私学校を開いていましたが、政府は「西郷隆盛を中心に反乱がおきるかもしれない」と危惧します。そして薩摩の火薬庫から弾薬を運び出そうとしたところを、士族たちに見つかり、衝突が起こります。
その後も、明治政府が西郷隆盛の暗殺を企てているなど、誤解や大久保利通との擦れ違いも重なり、戦いが始まりました。西郷隆盛は追い詰められ、城山で自刃します。これにより、新政府に対する武力抵抗が不可能であると世上に知られることになりました。これが「西南戦争」です。
戊辰戦争が封建制を脱するための開戦であり、西南戦争終結が近代国家への移行という人もいますが、どちらも多大な犠牲を払った戦争であることに変わりありません。
この記事へのコメントはありません。