第97代内閣総理大臣・安倍晋三総理も、大学卒業後は一般企業に就職しています。それが「神戸製鋼所」です。
総理の大学時代につきましては下記の記事をご参照ください。
ここでは安倍晋三総理の就職先「神戸製鋼所」と、当時の安倍総理の仕事について少しご紹介したいと思います。
留学から就職へ。安倍家の事情?
アーチェリー部に所属し青春を謳歌した大学卒業後、アメリカへ留学し、政治学を学んだ安倍晋三総理ですが、帰国後は「就職」することになります。
当時、すでに大物政治家と呼ばれていた安倍晋太郎氏の息子ということで、各企業からは引く手あまたの状況だったそうです。
はじめは父親・安倍晋太郎氏の意向で、「中堅商社で社会経験を」と考えていたようですが、最終的には地元である山口の下関に長府製造所を置く神戸製鋼所に入社することになります。
一方で、これには選挙事情も絡んでいたとみられていますが、「神戸製鋼所に入ることを、おじいちゃん(岸元総理)も喜んでいる」という身内からの殺し文句で決定したとか。周囲の状況に左右されるのは仕方ないことと承知なのでしょうか。自分で選べないのもなかなか大変ですね。
総理の家族構成、家系図についてはこちらの記事をご参照ください。
いまでも「財産だった」と語る製鋼所社員時代
帰国と就職の時期が微妙にズレていたこともあってか、安倍総理は就職してすぐ一年間はニューヨーク勤務だったそうです。その後、帰国して神戸製鋼所加古川製鉄所勤務となります。
安倍総理はこの加古川製鉄所の工程課厚板係に所属し、他の新入社員と同様に、溶鉱炉の現場を経験したそうです。2007年3月には、たっての希望で神戸製鋼所加古川製鉄所を訪問しています。
ここで約1時間にわたり、第3高炉、厚板工場を見学した後、なつかしさからか「みなさん、ご安全に。工程課厚板係の安倍晋三です。」と挨拶したそうです。また「ものづくりの誇りをもって頑張って」と激励し、訪問の記念に耐火煉瓦に「鋼の匠」と記したとのことです。
安倍総理はメールマガジンの第21号にも、この時のことを振り返り「私の社会人としての原点がここにあります。」と謳っています。
安倍総理は1979年から約3年間サラリーマン生活を経験したことになりますが、その後「日本の製造業の強さを体感できたのは財産だった」と語り、当時の同僚は安倍総理のことを「印象に残っているのは寛容な人だったということ」と語っているそうです。
政治の世界への入り口は父・晋太郎氏の一言から
神戸製鋼所加古川製鉄所勤務から東京本社輸出部に配属になり、仕事に従事していた安倍総理ですが、1982年、父・晋太郎氏が外務大臣に就任すると、秘書官になるためにすぐ仕事を辞めるように命じられたといいます。
しかし、安倍総理は当時、仕事への責任感からこれを拒否したそうです。父と子が対峙したことで、一番慌てたのは会社側だったようです。安倍晋太郎氏は元来せっかちな気質らしく、神戸製鋼所の首脳部に連日苛立ちの電話を入れて大混乱に陥れたと言います。
「本人がウンと言わない限り、辞めさせることはできない」と、社長も副社長も頭を抱えていたという会社を巻き込んだ安倍晋太郎氏と安倍総理の父子対決は、2週間余りも続いたとか。一時は、安倍総理の机を夜のうちに強制撤去する強行手段も考えられたそうです。
最後は、安倍総理の当時の直属の上司から「自分はどうしたいのか。政治家になりたいのか」を訊かれ、「なりたい」と答えた安倍総理に上司は退職を勧めたということです。
自分が辞めることで、会社に迷惑が掛からないかと心配する安倍総理の気持ちに上司は感動します。「この迷惑は“良い迷惑”だから、みんな喜んで後をサポートする。心おきなく秘書になって」と背中を押すと、安倍総理は人目もはばからず涙をこぼしたそうです。
安倍総理は、神戸製鋼所で携わった仕事にも、とても大きな誇りとやりがいを持っていたようですね。
この記事へのコメントはありません。