自由民主党の衆議院議員・石破茂氏は、鳥取県の出身です。父親の石破二朗氏が、鳥取県の知事をされてあったためです。
父親が亡くなったあと、田中角栄元総理大臣から「おまえが出ろ」と跡を継ぐように推薦されて、政界入りを志すことになったそうです。それでは、石破氏の家系はいつから政界に関わっていたのでしょうか?
ここでは、出身から見る石破茂氏の家系について、少しご紹介したいと思います。
石破茂氏の先祖も政治に携わっていた?
石破茂氏の家系を辿っていくと、父方の祖父は鳥取県の農家だったそうですが、その土地の村長を務めていました。石破市造という方です。鳥取県八頭郡大御門村の村長で、同村会議員でもあり、同信用組合の理事でもありました。
祖父の代から、政治的なことに携わっていた家系ということが言えます。石破市造は、若い時分から他に先駆けて、山を拓いて二十世紀梨を作ったり、御所柿を作るなど農業に力をいれました。しかしいずれも「成功」というまでの成果が得られなかったようです。
ただ、自身が幼少のころに、充分な教育が受けられなかったことを鑑み、子どもの教育には大変熱心だったそうです。また、自身も議事録を英語でとる努力をするなど、大人になってからも常に勉強にいそしんでいたと言います。
石破市造は、村役場の書記などを経て、明治41年に大御門村長に選ばれました。
石破茂氏の母方の先祖も政治家だった?
また、石破茂氏の母方の祖父も、政治に関わった方でした。金森太郎という方です。
金森太郎は、熊本では有名な宗教家の金森通倫の長男として誕生します。1913年に東京帝国大学法科大学を卒業し、かつての中央官庁に設置されていた農商務省に属しました。かなり優秀な方だったようですね。
その後も、金森太郎は様々な役職を経て、1931年には、大阪府警察部長に就任します。さらには徳島県知事、山形県知事などに従事した方でした。
金森太郎の長女・和子さんが、石破市造の二男・石破二朗と結婚し、石破茂氏の誕生へと繋がっていくのです。
石破茂氏へつながる政治家としての覚悟
父・石破二郎氏
石破市造は、養女を含めた6人の子どもを育てています。その二男にあたる人物が、石破茂氏の父親である石破二朗です。石破二朗は、父・石破市造の熱心な教育もあってか、東京帝国大学法学部に入学しました。
卒業後は、内務省に勤務し、福岡や山形での勤務に従事した時期もあったようです。1937年には、本所厩橋警察署長に就任、戦後の特別調達庁などを経て、建設事務次官に就任した後、1958年の12月に鳥取県知事に就任しています。
石破二朗は「清貧と努力の人」と呼ばれ、義と理に厚い古武士のような性格だったと伝えられています。それは、東京で生活中も毎週末鳥取に帰省し、神社に参詣、父祖の墓参りを欠かしたことがなかったといわれている姿にも表れています。
さらに、第二次世界大戦前の日本において、国の基礎を農業に置くことを主張する思想の持ち主だったと知られていることからも、父親が進んできた道を敬っていたことが伺えます。父の石破市造も、息子の敬意に値する人物だったことが想像できますね。
こうしてみると、石破茂氏の祖父の代から、深く政治に携わってきた家系ということが見えてきます。父親と母方の祖父は、ともに東京帝国大学で法を学び、政治に関わっていく道を選択してきたようです。
石破茂氏は、三井銀行でサラリーマンとして過ごしていた時に父親が亡くなり、推薦されて政治家を志したということですが、父や祖父をみて育った環境の中で、政治家になることに対しての覚悟は、知らずと備わっていったのかもしれませんね。
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