「維新の三傑」のひとり、大久保利通には、本妻の満寿子との間に5人、東京で囲っていた女性・おゆうとの間に4人、合計9人の子どもがいます。
現在までその血脈を辿っていくと、現在につながる政治家の名前がいろいろと見られます。第92代内閣総理大臣を務めた麻生太郎氏は、なんと大久保利通の玄孫にあたるそうです。
ここでは、大久保利通と麻生太郎氏、さらに第45代、第48代から51代までの長期内閣総理大臣を務めた吉田茂の関係について、迫ってみたいと思います。
大久保利通の子孫
大久保利通と、妻・満寿子の間には、岩倉具視と共に日本鉄道設立に参画した長男・大久保利和を筆頭に、政治家だった次男・牧野伸顕と三男・大久保利武、五男・石原雄熊、長女・芳子と5人の子どもがいます。
次男の牧野伸顕は、生後間もなく、大久保利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となりますが、1868年に吉之丞が戊辰戦争で戦死したため、名字はそのままで大久保家に育てられました。
また1936年の二・二六事件では、牧野伸顕は親英米派の代表として湯河原の旅館にいたところを襲撃されますが、孫の和子の機転で窮地を脱します。この孫娘が、吉田茂の娘であり麻生太郎氏の母親です。
吉田茂は、1878年東京で誕生します。父親は、自由民権運動で有名な板垣退助の腹心だった竹内綱という人物だったそうですが、反政府陰謀に関わったとして逮捕・投獄されます。
母親は、竹内綱の親友だった吉田健三のもとで茂を生んだと言われています。その後、茂は吉田健三の養子となり、養母に厳しく育てられたそうです。
吉田茂が11歳の時、横浜の貿易商だった養父・吉田健三が40歳の若さで逝去し、茂は莫大な遺産を相続することになります。1909年、吉田茂は牧野伸顕の長女・雪子と結婚し、女婿となります。(女婿とは、結婚と養子縁組が同時に行われた際の男養子を指します)
吉田茂は首相となってからも、たびたび牧野伸顕のもとへ相談に訪れていたそうです。
麻生太郎に続く名門の法則
麻生太郎氏は、1940年、福岡県飯塚市に誕生します。母親は前述の吉田茂の三女・和子、父親は麻生鉱業・麻生セメントの社長だった麻生太賀吉です。
麻生太賀吉の祖父は九州の炭鉱王・麻生太吉という人物で、麻生鉱業は炭鉱で莫大な財を築きました。麻生太賀吉は、ロンドン滞在中に白洲次郎の紹介で、当時駐英大使をしていた吉田和子と知り合い、帰国後に結婚します。
また、麻生太賀吉は、衆議院議員と九州電力会長も勤めた人物で、敬虔なカトリック信者でもあったそうです。妻・和子との間には、長男・麻生太郎氏をはじめとして、7人の子どもをもうけました。
その内の三女の信子さんは、寬仁親王の妃となられ、皇室に入りました。このため、麻生太郎氏は寬仁親王の義兄にあたります。さらに、寬仁親王と信子さんの娘として誕生した彬子女王と瑶子女王は、麻生太郎氏の姪にあたることになります。
ロイヤルファミリーに通じるなんて、なんだか麻生太郎氏のことを知れば知るほど、遠い世界の人のように感じますね。
また、麻生太郎氏の奥様・千賀子さんは、第70代内閣総理大臣・鈴木善幸の三女とのことです。ここまでくると、まさに政界を支配した一族と言わざるを得ない気がします。そしてその血脈は、明治維新を成した大久保利通に繋がっているのです。
歴代が眠る墓所
大久保利通をはじめとして、その息子の牧野伸顕、西郷隆盛の妻・いとと長男・寅太郎、そして麻生鉱業の社長だった麻生太賀吉も、いまは東京の青山霊園に眠っています。
青山霊園は桜並木の名所としても有名で、明治維新の功労者や文学者、政治家や俳優、芸術家など著名人のお墓が数多くあります。
世界的にも有名になった忠犬ハチ公のお墓もあり、いまも多くの人たちがお参りに訪れています。
吉田茂のお墓も以前はありましたが、現在は横浜に改葬されたということです。
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